丸山 雅秋 展

MARUYAMA Masaaki

2007.10.1 (月)-20 (土)
11:00 – 19:00 日曜休廊

存在
ベルント・フィンケルダイ

 丸山雅秋は立方体の彫刻を作る。だがその立方体の角は直角をなさないし、面は平らではない。それはブロンズで鋳造された物体なのだが、圧し曲げられていて不規則な形態をなしている。目に映った姿から次に目に映るだろう姿を推測することはできない。それは動きのない物体ではなく、運動しているかのようであり、そればかりか、光の当たり具合が変化するたびに違った姿で現れ出でる。アメリカの芸術史家はこのような現象を説明するために、「ファクチュアル・ファクト」と「アクチュアル・ファクト」を区別するにいたった。そしてこの区別によって、存在するものは存在を可能にしている条件が変化すれば、その都度違ったものとして現れうるということを指摘したのである。このことはどんな物、どんな道具、どんな作品、どんな生命体にも言えることだと、だれもが認めるだろう。だがしかし、芸術がそのことを指摘しなければ、われわれはそれにいつ気づくだろうか。

 丸山の作品は、静的で固定的で厳密に合理的な幾何学に従うことはない。ヨーゼフ・ボイスが作り上げた概念を借りて丸山の作品の特徴を記述するとすれば、そのかたちは結晶体ではなく、有機体をなすということになろう。この日本人芸術家の初期作品を一瞥すると、彼がロダンからマティス、ブランクージ、そしてイタリアの彫刻家マリーノ・マリーニへとたどるヨーロッパの彫刻の伝統と、インテンジブに向き合ってきたことは明らかである。これらヨーロッパの芸術家たちの図形的彫刻と、丸山は遅くともイタリア留学中に出会っている。彼の1982年の作品「ドンナ」(1)を例にとればわかるように、マリーニの立像「ポモナ」との親和性は明白である。これらの彫刻すべてとの共通性は、何かを模造したものではないことである。つまりそれらブロンズの塑像は、哲学者のマルチン・ハイデッガーの表現を借りて言えば、手短なところに遍在する個別存在者の複製などではなく、むしろ反対に普遍的な本質を再現するものなのである。それを実現するための重要な一歩が抽象化であるが、それは写像から像それ自体へと向かう歩みであった。

 丸山はこの縮小化と単純化の形式を時とともに推し進めてきた。1986年の木像「コルポ・スドライアート」(2)は重要な展開の一歩が鮮明に現れている。それは横たわる身体であり、腰、胸、肩らしきものがうかがえ、さらに頭を思わせる半球がそれに添えられている。1988年の「コルポ・スドライアート」(3)では形象性の抽象化はさらに進行する。身体はもはや断片化してしまう。形姿はいろいろな独立した力強いかたちの単体によって形成される立方体であるが、丸山の最近の作品に特徴的なのは表面が磨かれていて角に丸みがあることである。具体的存在者や現実的な事物は疎遠となる。だがしかし現実が見失われてしまうようなことは決してなかった。丸山が作り出すのは具象的な芸術ではない。それ自体で充足することはないし、自己の外の世界のなにものをも指し示すことのない芸術ではない。そのため彼の造形物はプラトン的な物体ではなく、純粋幾何学や数学的釣り合いから生まれてくるのではない。そうではなく、それは有機的な、まさに自然に寄り添った造形であり、さらに言えば、その小さくコンパクトなサイズからして脅迫的になることなく、いわば作品とのふれ合いへと人を招いている造形なのである。

 彼の作品の表面に目を向けると、人はブロンズの物体を構造化している線状の刻み目に気づくに違いない。それらからはリズムが生まれ、各部分の分かれ目が暗示され、全体のかたちに包含されている、いくつもの小さなかたちが目にとまるようになる。時には一部分が全体を凌駕するようなこともある。このような造形的現象を言葉で述べようとすれば、全体と部分の、結合と分割の、共同性と単独性の弁証法と言えるだろう。丸山の最近の仕事を見ると、同一のかたちからなる塊だけでなく、様々な個別のかたちからなる塊にも出会う。後者の作品の場合、あるかたちのものが全体をなす結合体から解離すると、果たしてそれが切り離された同じ場所にまた嵌るものかどうか、考え込んでしまうかもしれない。そこでは、かたちの異なるものたちが様々な配置につく。ひょっとしたらそれらは、重量の均一性によって統一を保っているのかもしれない。部分をなすかたちは全体の中に組み込まれているが、それでも埋没することなく自己を示す。ドイツの彫刻家ヴィルヘルム・レームブルックは、芸術とはすべて釣り合いであると定義した。釣り合いと釣り合いのぶつかり合い、これがすべてであると。そしてまさしくこの釣り合いの保持と、釣り合いを保った塊の関係こそが、丸山の作品なのだ。

 それらは有機的である。しかし決して図形的ではない。したがってそれらは記述的でもなければ、描写的でも説明的でもない。それらは精神性こそがその本性である抽象を追究する。抽象が追究されても、単にそれ自体が目的なのではなく、それはわれわれのためになされるのである。彫像的な諸関係は様々な存在状態があることを、個別の体が実在することを、そして他者と関係していることを告げる。そこから相互の同一性と差異の両方が見えるようになる。丸山の彫刻は個体のアイデンティティをわれわれの眼前に提示するが、それは同時に他者と共存する、もしくは並存するアイデンティティである。彼が追究している問いは典型的に日本的な問いなのかもしれない。だとしても、これらの彫像は社会学的な物の見方のモデルを提供しているのではない。それよりもっと多義的なのだ。丸山の作品において可視化するのは、人間の社会、建築、そればかりか自然においても遭遇する様々な関係なのである。最近の一群の作品で丸山は、普遍的な人間の問いとは何かを可視化しようとしているようにみえる。

 丸山が創作する形態や布置は強烈な表現の逼迫とはならない。それらは、それら自体の中で安らいでいるように見える。にもかかわらず、それらの世界に入り込むと、多くの声が聞こえてくる。そのことによって、人間と物の本質について、それらの存在について、思索にふけり芸術作品の根源についての著書を著したハイデッガーのテーゼ、芸術作品の特徴はまさしく物であるという、そしてそれ自体の中で存立しているというテーゼは確認される。芸術作品はそれ自体の中での存立によって、世界の一部となるだけではない。世界は芸術作品の中に現存するのである。芸術作品はそれ独自の世界を開示する。芸術作品は何かの思いを語るのでない。何かのしるしのように、ある意味を示唆するのでもない。それ自体の存在によって自己を表出するのであり、そうして観る人を呪縛するのである。その時、芸術作品を観る人にその本質は開陳される。その本質とは意味を顕示することではない。そのようなものではなく、芸術作品の意味の量りがたさと深さ、すなわち存在者の真実が作品の中に鎮座することこそが、その本質なのである。

(美術評論家)


(1)ドンナ:女
(2)コルポ・スドライアート:横たわる形姿、木
(3)コルポ・スドライアート:横たわる形姿、ブロンズ

訳者:山本淳